歴史秘話ヒストリア  戦国ラストサムライ

歴史秘話ヒストリアを見ている。

戦国ラスト・サムライの水野勝成は最後まで侍として生きた人間だ。

関ヶ原の戦いから島原の乱まで活躍した。

水野勝成は家康のいとこにあたる。

1560年の桶狭間の戦いで織田信長が勝利した。4年後三河の国に生まれた。4歳違いで家康がいた。実力さえあれば出世できる

水野勝成は初陣でノブながらこうから褒められる。16歳の時だった。

ある戦いで人を出し抜くことをしないと約束した。でも敵が来たので、出し抜いた味方を追い抜いて一番やりをなす。ある戦いでは父に兜をかぶらないで出ていったので怒られた。でも、その注意を無視して突撃した。
水攻めをしていたときに攻め時の大切さを家康に説かれた。

60年後にそのことを知る。

家臣に家の金を用立ててくれるように頼んだ。家臣から断られると、切り捨ててしまった。父から勘当される。武将の跡取りから、秀吉に召し抱えられた。勝成の武がほしかったのだ。また問題を起こして、秀吉から去る。
九州の地に渡り、次々とつかえる先を変えた。

でも、秀吉が天下統一を成し遂げると、主君への忠誠心を求められた。黒田官兵衛に仕えていたが、帆の綱を解いて来いと命令された。でも、それができなかったので、黒田家から去る。

それから8年、どこにいたのかわからない。備中で一児の父になっていた。

家康とは21歳差だった。伊達政宗や真田幸村と同世代だった。
勝成は生きづらい世の中になっていた。

戦乱も収まり、っ静かになった。

秀吉が突然亡くなって、世の中は動き出す。浪人勝成にとっては、大きなチャンスだ。勝成は家康に会いに行くが、家康には会えない。父忠重の許しがないと家康に会えない。暮6時から明け方まで警備していた。忠重に勝成を許してやれと。

36歳、家康57歳だった。六左衛門勝成が家を継げるようにはからった。
1600年の関ヶ原の戦いで、大垣城を攻めることを任された。関ヶ原の家康本陣の後方にある城を攻めることを任された。
大垣城攻めで着用した鎧には、脇に鉄砲の玉が貫通したあとが残っている。大垣城の戦いで勝成は負傷していない。
日向守に任命される。明智光秀のあとの位に任命される。それを喜んで受け入れた。
鬼日向と呼ばれるようになった。

1603年江戸に幕府をひらく。豊臣家の滅亡を計画する。大阪の陣だ。勝成52歳になっている。奈良方面から攻める大将に勝成を任命する。一番やりなど考えてはならんぞと注意した。

敵の勢い激しく、後藤又兵衛が来ていると知る。自ら出陣して一番やり。後藤又兵衛は死亡した。
1615年大阪城が落城。翌年、家康は世を去る。

水野家の菩提寺に砂時計が残っている。太平の世が訪れるはずだった。
広島県福山市、勝成の銅像がたっていいる。福山城は、勝成がたてた。伏見櫓という重要文化財が残っている。伏見城ゆかりの建物がたくさん残っている。5層10階の巨大な城を作ったのだ。外様大名を抑える役目があった。

74歳になっていた。そこへ松平伊豆守がやってくる。老中からの手紙がある。島原天草のキリシタンが蜂起しました。
大一揆が起きる。原城は4万もいた。九州各地の大名は10万人も集まった。改易された大名の家臣が多かった。
幕府軍の兵は戦をしたことがないものばかりだった。
板倉重昌が打たれてしまった。
75歳での出陣は異例中の異例だった。島原での戦いは兵糧攻めに転換していた。
鬼日向は意見を求められた。
60年ほど前の高天神の兵糧攻めだった。さにあらず、攻めるときに攻め、引く時に引く。
兵糧はむろん、ヤドきも尽きているでしょう。
幕府軍は一気に攻め込む。
勝成の息子の馬方の神が一番やりをする。

あくる年、勝成は隠居する。12cm四方の的が残っている。勝成公87歳のとき、20間離れた場所から命中させた。関ヶ原の戦いで生き残った最後の侍だ。
福山の賢忠寺では、勝成の供養をしている。
時代がどんなに変わっても、生き方を変えなかった勝成は88歳でなくなる。天寿をまっとうしたのだ。すごいですね。


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