真珠湾攻撃77年目の真実~日米ソの壮絶スパイ戦争

とらちゃん

2018年08月12日 15:18

テレビ朝日のザ・スクープスペシャル真珠湾攻撃77年目の真実を見ている。
日米開戦前に一人の日本人がハワイに送り込まれた。

その人物はたった一人でハワイに滞在していた。
ソ連のスパイは200名以上がアメリカにいて、日本に対して諜報活動をしていた。

アメリカの参戦の大義に大きな疑惑が出てきた。ルーズベルトは真珠湾攻撃をあらかじめ知っていたのか。

ハワイのホノルル日本総領事館に一人の日本人がやってきた。吉川猛夫日本海軍少尉だ。
矢本五十六率いる海軍は真珠湾攻撃を計画していた。総領事だけが吉川のことを知っていた。
外務省に行くと77根年前に森村正が外交の目的で渡米した。
総領事の車で、日本料亭に向かう。2階の座敷からは真珠湾が一望できる。絶景だった。下にFBIがいるだろうと言う。
その料亭は今も残されている。春潮楼だ。総領事館から毎日歩いてきたという。ヒッカム空軍基地が見える。森村正(吉川猛夫)がスパイ活動をしているとは全然知らなかった。
11日真珠湾在籍は軍艦、空母、駆逐艦などの詳細が報告された。
ヴェノナ文書が公開されている。ルーズベルトのコードネームはキャプテンだった。政権内に200人以上ソ連のスパイが潜んでいた。
ペイジ=ラフリン・かりー、財務次官補、国務省外務次官補、
日本がソ連に参戦してしまうと挟み撃ちになってしまう。ソ連が日米の開戦を望んでいたのは間違いない。彼らは日本に対してどんな工作を仕掛けていたのか。41年7月に日本爆撃計画が作成されていた。ルーズベルトのサインもあった。大統領行政職補佐官のラフリン・カーもその計画に関わっていた。長崎、神戸、などが標的にされていた。
元KGBの将校は、アメリカの利益に合致しておりソ連の利益にも合致していた。武器や軍事品をソ連に提供される法律が成立していた。
防衛省防衛研究所には、吉川からの連絡記録が詳細に記録されていた。吉川からの電報は177通にも及んでいた。観光客向けの遊覧飛行でも上空から気流などを探っていた。真珠湾に停泊する艦隊を撮影した。吉川がホノルル市内の日本人の自宅を訪問した。流星の観測で、30年間で暴風雨は一度もなかったと知る。オアフ島の東西をめぐる山脈の北はいつも曇りで、南は晴れであると報告された。

なかなか詳細な報告ですね。でも、これがアメリカ側にもバレていたということは。
鹿児島の桜島では極端に低空で飛ぶ訓練が行われていた。水中魚雷の訓練をしていた。鹿児島の街中を低空で飛んでいく。パイロットの頭が見えるくらいの低空だった。

ソ連のスパイの暗躍によって、日本への最後通告の準備が進んでいく。
ある大きな弱点が日本軍を悩ませていた。真珠湾の水深は12mしかない。低空で接近して魚雷を深く沈ませない方法を取ろうとしていた。真珠湾に停泊している艦船が、防雷網を装備しているかどうかの確認の命令が吉川に届く。でも、そんなことを確認するのは難しい。当時も今も重要な拠点である。77年前の日本軍の銃撃のあとが残っているし、戦艦ユタが沈んでいる。アリゾナ記念館には戦艦アリゾナが沈んでいる。

1941年11月26日ハル・ノートというのがある。中国から全面撤退や無理難題が書かれていた。財務次官補ハリー・ホワイトがソ連の重要な情報源だった。ハル・ノートに自分たちの主張を盛り込んでほしいというのが受け入れられて、それが受け入れられた。

吉川は連日に渡るスパイ活動で、第1、3日曜日に多くの船舶が停泊していた。そして、防雷網を持っていないと報告される。11月下旬に真珠湾攻撃を知らされていない。12月6日奇襲前日には、これまで見たことがない数の艦船が集結していた。それを報告したいと思ったが、一人でタイプライターのキーを叩いた。8隻の戦艦がいるとわかっていた。次々と停泊するアメリカ艦隊が沈んでいく。英語のナレーションが入っている。アメリカ軍の映像では、静かな真珠湾が写り、なんてことだと思ったという。ギリギリのタイミングで魚雷を放って、艦船の上を超えていった。魚雷防御網を設置していたら、それは無駄になってしまう。吉川の報告で正しいことがわかっていたので、成功した。

日本軍が浅い水深で魚雷を発射できるとは思っていなかったのだ。12月7日第一日曜日に実施された。
真珠湾攻撃直後、吉川たち領事館の職員を拘束した。でも、4ヶ月前にスパイ活動を知っていたという。森村は領事館の外ですごしていると書いてある。吉川と東京との間でのやり取りを傍受して英語で把握していた。
マジックという外務省の暗号電報で、アメリカに筒抜けだったのだ。外務省の電文はすべてバレていた。真珠湾攻撃のその日にやってきて、望遠鏡などを差し押さえた。

当時のアメリカは不景気にあえいでいた。参戦して景気をよくしたいと思っていた。大切なのは、日本に先に手を出させるかということだった。
どのようにして我が国に大量な被害なく、先に攻撃を受けることができるのかが大切だった。

60年以上たって、小さな潜水艦が見つかった。真珠湾攻撃には5隻の特殊潜水艦が参加していた。6時37分潜水艦発見、そして、駆逐艦ウォードから爆撃開始された。被弾した跡が残っていた。日本の特殊潜航艇を撃沈したということが明らかになった。それがルーズベルトのある矛盾を浮き彫りにすることになった。6時40分戦闘開始、6時50分砲撃開始とある。ということは、先にアメリカが攻撃していたことになる。

1945年2月ヤルタ会談で、南樺太と千島列島の領有をソ連に認めた。その下ではソ連のスパイが暗躍していた。この会談を仕切っていたのはアルジャー・ヒスだった。ヤルタ会談の準備段階から関わっていた。
満州へ8月にソ連は侵攻した。

ソ連は日本とアメリカを戦わせたかった。ルーズベルトは本当は開戦したかった。

戦後20年の節目に、吉川は再びハワイの地をふんだ。そして、黙祷をささげた。彼にはどうしても彼には伝えたいと思っていた。
私は日本軍から送り込まれたスパイだった。
森村は愛媛でガソリンスタンドを経営した。
日系ハワイ人たちはアメリカ社会に溶け込んで暮らしている。
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