ファミリーヒストリー さだまさし~スパイだった祖父大陸の奥へ~
ファミリーヒストリーさだまさしを見ている。
グレープでデビューして、ソロになって何十年。
祖母からは大陸で諜報活動をしていたスパイだったと聞いている。それはどういうことをしていたのか。気になるという。
モンゴルの奥地、満州、などのキーワードが出てくる。僕はスパイじゃないですよ。
曽祖父佐田けいじは島根県にいる。佐田家は島根県に本家がある。昭和の初めまで山のふもとに屋敷があった。近くの山で砂鉄を採取するためだった。佐田家の北側に山があり、その裏にある山から出る砂鉄を管理していた。
祖父繁治は陸軍に入隊する。浜田市役所に繁治じゃ、第5師団歩兵、日清戦争に従軍した。その後、公文書館で台中県の巡査になった。台湾だ。4年間すごした。その後、外務省外交資料館にあった。新疆ウイグル自治区の国際探偵で、三井物産につとめていた。でも、記録がない。陸軍省の記録で、新疆ウルムチで国際探偵をしていた。中国をへて、赤軍が入ってくる可能性があるのではと派遣されたというのだ。佐田繁治の同僚で田島英次郎がいた。ゴビ砂漠を渡っていた。ウラジオストクに7万の日本軍が派遣された。萬朝報の記者として派遣された。スパイではないかと疑われて、逃げた。日本人の女性に匿われた。その女性が祖母だ。日本料理屋をウラジオストクでやっていた女性だ。
佐田玲子はまさしさんの妹だ。エム(祖母)から聞いた半生を書いたノートが見つかった。
田原家は裕福な農家だった。エムは学校へいかせてもらえなかった。子守をさせられて、自分も泣いていた。明治27年に結婚したが、男の子を出産した。でも、原因不明の湿疹にかかる。赤ん坊はぎゃーと引きつり、死んでしまった。苦労して、飛び出した。ロシアウラジオストクに渡り、人生をやり直すことにした。明治31年家政婦として働き始める。鐘ヶ江重政と結婚した。対称年に重政が亡くなった。松閣楼を開いた。シベリア出兵で多くの日本人がやってきたことで、大いに儲かった。現在はパスポートの発行事務所になっている。二人は結婚した。雅人が誕生する。まさしの父だ。大正11年に、民間人も引き上げることになった。旧樺太サハリンにわたることにした。
全国樺太連盟に資料が残っていた。王子製紙のある小学校の近くにあった。佐田家があったのは街の中心街だった。王子製紙の工場の跡地は廃墟になっている。製紙の原料になる森林を所有した。繁治は亡くなった。
王子製紙の工場でボイラーの係として働いた。佐田雅人が小学校を卒業したら、池田愛蔵から手紙が来た。エムは雅人を連れて、満州に渡った。
満州のチチハルに行った。昭和9年9月18日に、猪口時計店の前で家族写真を撮影した。現代のチチハルで猪口時計店があった場所は、近くに映画館や食料品店もあってホテルになっていた。雅人は現地の学校に通った。エムに子守をしてもらった猪口さんが証言した。20歳になった佐田雅人は上海に配属される。中国語に堪能な兵士は、諜報活動を始めた。父と同じ道を歩むことになった。
雅人の上官である古谷章一だった。
昭和20年8月に終戦を迎える。蒋介石率いる国民党軍に誘われた。蒋介石と毛沢東の戦争が始まるので、日本軍の争奪戦が始まった。雅人は日本に帰ることを友人に誘われて、長崎に帰国した。猪口時計店にもソ連兵が入ってきた。時計や貴金属を猫削ぎ持っていった。
これは磁石だとバカにしたら、殺したければ殺せとエムがロシア語で言ってロシア兵を追っ払った。
長崎に帰国してエムを探していた雅人は、母を見つける。エムといっしょだった猪口健一がいた。雅人は長崎で材木商を始めた。雅人に縁談が持ち込まれる。岡本喜代子だった。岡本家は一旗あげようと長崎に出た。そして、沖仲仕をやったという。明治10年岡本組を立ち上げた。岡本安太郎だ。後継者が為吉だ。長男為吉は京都に旅をする。為吉は尺八の修行に打ち込む。尺八奏者として長崎で活動した。びわ奏者のよねと知り合う。安太郎が72歳で他界する。大正為吉とヨネが結婚した。喜代子が生まれた。音楽が好きな少女に育つ。雅人と喜代子が結婚した。まさし、繁理、玲子が生まれた。まさしはバイオリンを習った。諫早大水害が起きる。佐田家は大変な負債をかかえて、家を手放した。
佐田家は町外れの長屋に移り住んだ。材木商の仕事をしようとしたけど、うまくいかない。まさしはバイオリンを続けた。上達ぶりは群を抜いていた。先生に指摘されたことを書き留めて、自宅での練習に役立てた。クラシックの月謝は他界ので、難しいものをしっかりと覚えた。まさしの楽しみはエムの話しを聞くことだった。昭和37年エムが死去する。昭和39年、学生音楽コンクールで入賞した。毎日音楽コンクールで入賞したのだ。まさしを本格的なレッスンを受けさせるために、上京させた。まさしの弟繁美は、お兄ちゃんが頑張っているからねと聞いていた。次男と長女には引け目を感じていたと母は言う。
昭和43年、目指していた高校の音楽科の受験に失敗した。これ以上バイオリンを続けるわけにはいかないと思った。まさしは、奥学院高校に進む。昭和45年大学に進学して必死でアルバイトをした。体を壊して、大学をやめて帰省する。
久しぶりに実家で過ごしながら作曲した。「無縁坂」だ。「お母さん新曲を発表します」という。吉田まさみとグレープを結成した。
長崎放送のディレクターで、これは大変なことになると思ったという。
「精霊流し」は50万枚の大ヒットを記録した。
兄は家族の期待を背負ってすごく大変だったと思うと妹が言う。子供の頃はバイオリンを引けると天才なんだけど、徐々にふるいにかけられる。
まさしは、「いかに自分が小さいか思いますね」と語る。
数々のヒット曲を送り出したさだまさし。雅人は社長に就任する。中国の大河長江を舞台にした映画を制作するが、35億円の借金をかかえる。まさしは借金を完済する。でも、雅人は亡くなった。喜代子はまさしの歌を歌うコーラスグループに所属する。
喜代子の遺品からまさしからの手紙が見つかる。金の無心をするはがきが見つかった。
腹減って、めしを食うにもパンを食べるにも、所持金20円。そういう手紙の文章があった。
関連記事