歴史秘話ヒストリア 幻のノーベル賞 山極勝三郎
歴史秘話ヒストリアを見ている。1949年に湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞した。日本人初の受賞だった。
山極勝三郎という医師がノーベル賞の候補になっていた。
人の手でガンを作り出すことに挑戦した。
山極のピンチを救ったのはうさぎや熊だった。
受賞間違いなしと言われていたが、受賞できなかった。
世紀の大失敗とも言われた選考が明らかになった。
明治から大正にかけての研究者だ。
なぜガンの研究を志したのか、信州の下級武士の家に生まれた。医者の家の養子になり、東京大学医学部に進学する。
学生時代の山極は、ドイツに留学して病院を作りたいという夢を持っていた。
在学中に結婚して25歳のときに長男が生まれた。前途洋々だった。ところが、息子が明治21年死去する。医師として父親としても失格だなと思う。
山田愛子さんは、我が子さえ救えなかったのは重荷になってのだと思うという。
山極は臨床医ではなく、病理医になることを決心する。1891年ドイツに留学することになる。ドイツに渡った山際は、博士に出会う。
ルドルフ・ルイヒョウの迫力に後ずさりしたという。それではだめだ。進歩的な人間は前に進まないといけないと言われる。
山極は、フォーヴェルツによって励まされたという。3年間の留学で、最新の病理学と前に進むということを学ぶ。帰国後、教授になる。
レモンストラジオンクルスを行うという。
何千体もの遺体の解剖をした結果、胃がん発生論という死亡統計をまとめた。10人に一人がガンで亡くなっていることがわかった。
当時結核が注目されており、ガンが進行すると防ぐ手立てがないと思われていた。
自ら発行したガンという本で書いている。
江戸時代には海外に大きく遅れを取っていた。
破傷風の研究で北里柴三郎、野口英世もアメリカで大きな評価を受けた。
でも、山極の道のりはけわしく厳しいものだった。
それは、人工発がん実験だ。
ガン発生のメカニズムは謎だったのだ。遺伝素因説があった。
山極は刺激説を考えていた。
ガンの発祥のメカニズムを明らかにする研究を今もやっている状態だ。
山極の助手たちが逃げ出してしまった。ネズミの耳を突き続ける単純なものしかわからなかった。
1913年に病理学氷質に一人の新入生がやってくる。市川厚一(こういち)だった。
動物の扱いが得意な市川の登場で大きく実験が進む。
中学校に山極先生の資料が残っている。学会で、ガンを作り出すのは不可能ではないと発表していた。
山極のアイディアは、もっとも大切なものだった。うさぎは耳が大きいからわかりやすい。うさぎの耳にガンができたことはないと言う。
刺激する物質はコールタールを採用した。うさぎの耳にコールタールを塗っては、拭き取る繰り返しをした。
市川は大学に泊まり込むことになった。えぞ熊というあだ名もつけられた。
ガンなどできるわけがないと、冷かな目で見られた。
結果がでるまで1年も過ぎた。結果が出るまで諦めてしまったから、実験は失敗するのだ。だったら、我々は諦めないまでだと言う。
ガンはできると信じて、前に進む。
1915年、8年後にうさぎの耳の細胞を監察していた。市川は顕微鏡で耳の細胞を見ていた。顕微鏡を除くと、実際にがん細胞ができていた。
すごいですね。8年もやり続けたとはすごい。
その後も二人は人工発がんに成功する。
ガンの標本が残っている。
実験は面白いとか興味深いなどという結果がなく、辛抱強くやり続けたのには驚くばかりだという。
山極勝三郎はとても厳格だったので、何を言われるかと思ったら、「暗くなるまで実験をやってはいけないと」声をかけていた。
その前に見えてきたのは、ノーベル賞だった。
動物の臓器にガンを発生させる実験を始めた。他の研究者も同じ方法で成功した。
市川も功績を認められて、北海道帝国大学の講師に任命された。
驚きのニュースが飛び込んできた。
アルフレッド・ノーベル。
ルードヴィヒ・アショフ博士がノーベル賞に推薦した。
先生が受賞できなかった。ヨハネス・フィヒゲル博士が寄生虫でガンを発生させることで受賞した。二人が受賞することで話が進んでいた。
山極先生がタールを塗ってガンを発生させたのが前例があった。煙突掃除人がガンになりやすいことがわかっていた。
世紀の大失敗でも言える過ちだったことが後に判明する。
山極は次の目標に向かって進んでいた。ガンの治療に力を尽くしたいと思う。
晩年、ガンの予防について書いている。刺激のある食べ物や辛いものや冷たいものを食べすぎてはいけないと書いている。
先生の見つけた成果が後の研究h差に与えた影響は非常に大きいのだ。それが、大きな功績になっている。
人々の幸せのために山極勝三郎は、67年の生涯を終える。
第9回ガンの国際会議が開かれた。そこで、フォルケ・へんシェン教授は、分け合うべきだったという。
もうひとりの研究者の結果は、間違いだったことがわかった。
世界中の研究者が読む本の冒頭には、山極の功績が紹介されている。
山極先生の解剖台が、校舎の壁に飾られている。
上田市の山極勝三郎のサイトは
http://museum.umic.jp/yamagiwa/
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