歴史秘話ヒストリア 幻のノーベル賞 山極勝三郎

とらちゃん

2018年11月28日 23:10

このテーマは前にやっていると思ったけど、また見てしまったのだ。2018年10月10日に同じ内容を放送していたのだ。
湯川秀樹の20年前に山極勝三郎というがん研究の先駆者がいた。

人の手でがんを作り出すことに挑戦した科学者がいた。
うさぎや熊が手助けになった。受賞間違いないと言われたのに。

山極勝三郎だ。がんの研究を行っていた。
なぜがん研究を志したのか。長野県上田藩の下級武士の家に生まれた。東京大学医学部に入学する。上田市博物館に未来ゆめものがたりがある。ドイツに留学して日本の医学を世界レベルにしたいと。

在学中に結婚した。長男も生まれた。ところが、息子が明治21年に肺炎でなくなる。医師としても父親としても失格だなと思った。
神田愛子さんは、我が子さえ助けられなかったことが重荷になると思うという。臨床医ではなく病理学の道に進むことを決意する。明治24年にドイツへ留学する。
ドイツにルドルフ・ウィルヒョウ博士を訪ねる。あとずさりしたのを、それではダメだと言われた。山極君前へ進むのだと言われる。
3年に及んだ留学で前に進む精神と最新の病理学を学んだ。帰国後、教授になる。
デモンストラチアン・クルグスを行う。3000体の遺体の解剖を行った。
胃がん発生論を執筆した。10人に1人ががんでなくなっていることがわかる。当時は結核ばかりが注目されて、がんのち療法がなくて見守るしかなかった。雑誌「癌」を発行する。
医学の歴史に燦然と輝く成果が残される。
北里柴三郎、野口英世らが功績を残した。そうした人々と肩を並べたのが山極だった。
1907年に人工発がん実験に取り組もうとしていた。遺伝素因説、抑制が効かなくなると癌が発生する。
刺激説、正常な細胞でも刺激を受けるとがんになるという説だ。
山極はさっそく研究に取り掛かる。弟子たちが次々に逃げ出すのだ。ウサギの耳を突くみたいな地味なものだった。

1913年に新入生がやってくる。市川弘一が来た。忍耐強い市川が加わって研究が動き出す。
山極先生の資料が小学校に残っている。強い自信を持っていた。

見直しをした。実験の最も大切な部分の見直しだ。うさぎの耳にはがんができたことがない。耳を刺激するのに適した物質を見つけた。
それはコールタールだ。タールのせいで顔や手が腫れるのがしょっちゅうだった。
市川は大学に泊まり込み、えぞ熊と呼ばれていた。

結果が出ないまま1年余り、経過した。これまでどんな実験も成果が出なかったのは、あきらめてしまったからだと思う。必ずがんはできる。我々は諦めないだけだ。
1915年夏、実験開始から8年がたっていた。朝からうさぎの細胞を観察していた。先生びっくりしないでください。顕微鏡を。これはがん細胞だ。これは癌だよ。ついに成功したぞ。ありがとう。
人工発がんに3度も成功した。がんの標本が残っている。

宮園教授は最後にがんができるまで忍耐強くやったのは、驚くべきことだと語る。
決して仕事一辺倒だっったわけではないという。
勉強も大切だが程度というものがある。明かりが必要なほど仕事をしてはいけないと弟子に言った。

見えてきたものがノーベル賞だった。
筒井秀次郎も実験に成功した。彼らの成功はがん研究の実績を進歩させたと外国でも評判になった。
市川は北海道大学の講師になる。

そんなときに驚きの知らせが入る。ノーベル賞は山極を候補に推薦した。誰もがそれを疑わなかった。
ところが、デンマークのヨハネス・フィビゲル博士のものだった。寄生虫を用いて癌を発生させるものだった。
二人が受賞する可能性があったけど、ヨハネスのほうが早かったという。
イギリスの煙突掃除人が肺がんになりやすいとわかっていた。経験敵に知られていた。

まぼろしと消えた。

でもそれが、世紀の大失敗だったことが後に明らかになる。
山極は次の目標に向かって進んでいた。がんの治療についてや。がんの予防について研究した。
お酒や刺激物をほどぼどにして、気をつけようと書いていた。
人生すべてをがんの研究に捧げた。

がんの原因究明にすばらしい成果を生んで、後の研究者に受け継がれた。1930年になくなる。

第9回がんの国際シンポジウムが行われた。そのときに驚きの発言があった。あのときのノベル賞は日本人と分け合うべきだったという。
世界中の研究者が読む専門書の冒頭で紹介されているのが、山極の研究だ。

山極の解剖台が校舎の一角に飾られている。
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