歴史秘話ヒストリア 手塚治虫
僕が漫画家になったのはお金をためてアニメを作りたいなと思っていた。手塚治虫の夢と挑戦を追う。
手塚治虫、漫画の神様。アニメの先駆者だ。
第2次、
第1次アニメブームは鉄腕アトムだった。60作のアニメを送り出した。
神様が子供だった頃に。手塚治虫記念館に行こう。アニメの絵コンテなどがいっぱいある。
小学校3年生のときに描いた漫画「ピンピンピンチャン」が残っている。
1928年大阪生まれの手塚治は漫画をかいてクラスメイトに見せていた。
手回しの映写機で映画を見た。ミッキーの汽車旅行に夢中になった。弟の浩さんは覚えている。アニメーションを繰り返し見続けた。一コマ一コマを見た。自分でもアニメーションができると思った。パラパラ漫画がいっぱい描けた。
小学校の同級生にも見せた。
アニメーション作家になりたいと思った。
1945年16歳で空襲にあう。爆撃の中命からがら逃げた。
桃太郎海の神兵という日本初のアニメがあった。
1986年のロングインタビューで涙がこぼれたという。僕もとにかく1個でもいいから作りたいと思った。
上京して漫画映画作家を求むという張り紙を見た。あなたは漫画作家になれといわれた。1万枚も10万枚も絵をかかないといけないとわかり、売れっ子漫画家になった。漫画家になったらお金がたまる。そして、アニメを作りたいと思った。
あこがれの人はウォルト・ディズニーだった。1937年の白雪姫、バンビも何十回も見た。ディズニーのパラパラ漫画を手元に置いていた。
鉄腕アトム誕生の瞬間が来た。
虫プロダクションにアトムのフィルムが全巻残っている。杉井さんが語る。
1週間で30分毎日続けた。世界初の試みが行われた。
30歳のころ、大きなチャンスが来る。大きな孫悟空のアニメ化の仕事が来た。現場から貼っずされた。
1960年の「西遊記」でも考えを通らなかった。ハッピーエンドになってしまったのだ。
1本映画を作るには大変なことだとわかる。
だから、手塚治虫プロダクションを作った。「ある街角の物語」を作る。
1962年に会社が本アク敵に始まる。手塚は週1回の連続アニメに作る。
1963年「鉄腕アトム」とする。連続長編アニメは不可能だと思われていた。毎週10万枚くらいの絵をかくしかないと思われた。。
リミテッド・アニメーションという手法を取り入れた。群衆が逃げるシーンではたったの4枚しか使っていない。一度作った動作は繰り返し使った。
これはアニメーションではありません。テレビアニメですと言った。
肝心な部分だけ動けば子どもたちは夢中になると思っていた。27.4%の視聴率だった。
スタジオに泊まり込み、ひらすら机に向かったという。夜中の2時3時に手塚がやってきた。
回を追うごとに視聴率は上がった。40%を超える視聴率を記録した。鉄腕アトムがなかったら、日本のアニメの発展はなかったという。
世界の子どもたちも夢中にさせた。
1964年万国博覧会が開かれた。ニューヨークに行くと、ウォルト・ディズニーがいた。これからは宇宙に目を向けるでしょうと言われた。
東京オリンピックでカラーテレビが登場する。65年ジャングル大帝が放送される。
400人を超える大所帯になる。女の子向け、妖怪もの、スポーツものも流行る。
虫プロは倒産する。アニメから一時離れる。
埼玉県新座市に最後のしごとばがある。アニメ用と漫画用の机がある。
数年後負債を完済して、アニメの世界に戻る。
ジャンピング。ジャンプする主人公の目線がワンカットで描かれる。海外の賞でグランプリを獲得する。
85年には「おんぼろフィルム」。実験アニメに熱中した。
小林準二さん。これでいいという段階がない。
「森の伝説」88年。アニメーションの歴史を振り返るようにリミテッド・アニメーションと細かい動きのアニメが対決する物語だった。
89年享年60歳で亡くなる。最後の言葉は、頼むから仕事をさせてくれだった。
虫プロ出身の作家が次々とアニメを生み出していく。
2019年1月放送予定の「どろろ」が新しく誕生する。アトムも公開予定だ。
アニメの魅力は、生きている喜びを表現できる。そのためにアニメーションが作りたい。
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