小杉左近の情け、一言坂の戦い。布橋。遠州大念仏
武田勝頼が二俣城を攻略した。籠城されたけど、天竜川かた水を取る櫓を破壊したことで、水が得られなくなって降伏したようだ。
三方原の戦い。12月24日。二俣城から、南下してきた武田軍は浜松城に向かわないで、浜名湖方面に向かう。それを見た家康軍は、自分の庭を素通りされたと思って、追撃に出る。背後から武田軍を襲撃すれば、勝機があると考えた。
でも、武田信玄は待ち構えていたのだ。しかも、しっかりと陣形が整っていたのだ。
徳川軍は多くの犠牲者を出してしまう。
それを聞いた夏目治郎は、城から飛び出していって身代わりになる。殿の鎧などを交換して、敵中に突っ込んでいった。
敗走する家康はなんとか、浜松城にたどり着く。
城では、やぐら太鼓を叩いて、逃げてくる目的地を示した。。また、武田軍が来ないように、谷に布で覆いをして、落とし穴を作った、そこは、布橋という地名になっている。
その後、家康は犠牲者の霊を弔うために、僧侶たちに念仏を唱えさせた、それが、念仏踊りである。現在も残る遠州大念仏の起源になった。
そのやぐら太鼓は、現在旧見付学校の校舎に保存されている。
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