ファミリーヒストリー 陣内孝則

陣内孝則のファミリーヒストリーだよ。

ろくな家ではないと思っていたから少し怖い。

化粧して歌っていた。もともとはビジュアル系ロッカーだった。

福岡県大川市。木工業が栄えて家具の産地だった。陣内木工が実家だ。母良子さん。父は邦雄。曽祖父八次郎が建具屋を始めた。
おみやさんに狛犬を寄付した。風浪宮。昭和17年に寄付された。橋を寄進した。

大川から北東に30km、草野歴史資料館を訪ねた。大友氏が何回も攻め込んでいた。鷹取山の麓に陣内村があった。陣をはって攻める。陳内市は大友氏につかえていた。有力農民が武士になった。その後、各地に散らばっていった。
陳内家は大川に移る。先祖代替の米穀業としていた。
大川には腕のいい船大工が多かった。分家して建具屋を始めた。八次郎は4男だったので、独立するのが夢だった。建具屋や雨戸屋をしていた。質のいい雨戸を作り、大きな利益を得ていた。陳内銀行と呼ばれていた。

定次が後をついだ。昭和16年戦争が始める。金属は不足していく。木製の飛行機を作らされた。戦争が終わると、木材統制は解除された。
定次も陣内木工としてスタートする。洋服ダンスを目玉にした。邦雄は後継者として修行をする。27歳であとを継ぐ。
神社を車で通ると、お辞儀をする習性がある。
良子さんの故郷は、朝倉市だ。よきち。庄屋だった先祖はハゼの木を植えた。生蝋の製造をやっていた。古賀家はろうづくりの傍ら、米相場に手を出した。夜逃げをした。冷水峠を超えていった。飯塚市を目指した。旅役者のようなことをやっていた。家族総出で芝居をしていた。
飯塚で蓄えができると、故郷に戻った。
郎づくりの知識を生かして、東京に出て正直屋という店を出す。鬢付け油や雑貨を売っていた。
関東大震災に会うが、トイレに入っていたので助かった。
故郷に戻る。実家のろうづくりを手伝う。良子が生まれた。

固形燃料を発明した。アルミの弁当に金を入れて帰ってきた。軍隊に固形燃料が採用された。

終戦で固形燃料は行き詰まる。良子の嫁ぐ先が問題だった。商売は七転び八起きだから面白い。商売人がいいと騙されていった。

昭和32年良子と邦雄が結婚した。結婚生活は想像以上に過酷だった。毎朝4時に起きて、35人分の食事を作った。
姑小姑が多く、泣いていた。トイレ掃除は大切にしていた。昭和33年に孝則が生まれた。結核だと言われた。大きな病院に行けと言われた。
押入れの中に入って泣いた。実家のある朝倉に帰って、療養所に入る。2年近くになる。
私に戻る場所はない。と思った。孝則が抱きついてきた。再び陳内家に戻ることになった。
不満だらけだったけど、一からやり直すことを決めた。

高度成長期を迎えたので、邦雄は家具の生産を始めた。洋服ダンス・和ダンス、などを作った。美術品のような家具だったという。

塗料を塗った。昭和38年に新工場を作る。良子はたくましくなっていた。
両親はすごい喧嘩をしていた。
池松壮亮の親だ。
邦雄を乗せて、事故でトラックがひっくり返った。邦雄は無くなったけど、妻はお金を探した。
二人は仲人をたくさんした。婚礼家具を売っている家なので、傷つけてはいけないと言われた。
近所でも評判のおしどり夫婦だった。

昭和49年、孝則が中学生になって全く勉強をしていない。ギターにはまり、勉強をしない。それでも孝則のバンド熱は収まらない。
上京してバンド活動を始める。父は気落ちしていた。
昭和62年「ちょうちん」で、映画賞を総なめした。そこで、孝則のことを自慢するようになった。
孝則はエリコさんと結婚した。

まもなくバブル崩壊がくる。家具屋や木工所の倒産が相次ぐ。
父は木工所を閉じる。

今日の話は面白かったな。両親の手のひら返しが露骨だな。

邦雄さんは高血圧と糖尿病になり、83歳でなくなる。


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