ファミリーヒストリー 伊東四朗~思いがけず平氏と源氏たどり着いた喜劇の道

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今日は伊東四朗さんだ。昭和33年21歳だった伊東四朗がデビューする。電線音頭は一大ブームを引き起こした。芸歴60年になる。
父は洋服の仕立て職人だった。牧之原市相良で生まれた。明治8年に作製された伊藤籐十がある。一軒となりのとなりには伊東さんがいた。藤の字だったけど、東に変えた人がいる。伊豆の伊東から来たという。
伊藤家はなぜ伊豆からやってきたのか。相良は砂だけしかなかった。文禄4年に税金を免除するので住民を集めようとした。
伊東市には平安時代から伊東さんが続いていた。朝廷から伊豆の国を賜って伊東と名乗った。伊東家は藤原氏の祖先でもある。
伊東祐親は平清盛につかえた。
家康の掛け声で相良が繁盛した。田沼お気次が橋のところに港を作った。金三郎や伊東藤十の養子になっていた。このへんでは長男が生まれたら祖父の名前をつける。
明治36年金三郎が6歳のときに、伊東家の養子になった。やすは人を雇って伊藤魚店を営んだ。金三郎の孫でわがまま放題に育てられた。
金三郎も三味線や長唄を習い、芸事が好きな青年になった。家業は得意ではなく、店をつぶしてしまった。
知り合いを頼って掛川に向かった。三河屋という仕立て屋に修行をした。今はパン屋になっている。洋服仕立て業だった。その中に金三郎がいた。25歳のときに縁談が持ち上がる。熊井はつという。

熊井家の先祖は天保6年に亡くなっていた。長野から来たという。熊井性は長野県にある。塩尻市にある。熊井郷と呼ばれて村があった。そこに熊井城があった。武田信玄によって滅ぼされた。城跡の近くに熊井家が暮らしている。
長野市長岡地区に熊井家があった。古い家系図があった。義経につかえていた熊井太郎がいた。以来武士として生きた。豊臣方について農民になった。源という字を名字に入れていた。輝夫の母方の先祖も源を使っていた。熊井ゴン太が掛川にやってきた。
明治初期に熊井九八が美術を扱っていた。勝海舟直筆の書もあった。サイジの代で店を閉じて、相良に向かう。薬局を開いた。
熊井源吉さんがタイヘイ薬局に入った。熊井太陽堂という自分の薬局を開いた。げんきちはマメな性格だった。お金をよく貸して催促したことがないという。国勢調査員になった。人望が厚い町の名士だった。はつは実科女学校に進学した。その後師範学校に行って教師になろうとしていた。
まだ18歳で教師になろうとしたので、結婚する気はなかった。

相手とは口一つ聞いたことがなく、夫の姿をこっそりと見に行った。がっかりしたというが、親にも説得されて結婚した。

金三郎の性格は自我の強いワガママものでした。

洋服の仕立て屋として働いていた金三郎は仕事に身が入らない。芸事が好きだったので、はつのおばせんを頼って上京する。ひざ掛けを縫っていた。大正12年に上野の近くに家を借りる。一ヶ月後に関東大震災が発生する。上の駅にも火が迫ってきた。上野駅も火に包まれた。上野公園に逃げたら、50万人の人々が押し寄せた。3日目に無賃列車を走らせた。東京から脱出した。掛川に帰ってきた。
金三郎は洋服の仕立て業を始める。金三郎は働く意欲を失う。はつは父の源吉に金を借りた。何度も借金をした。
震災から3年後、下町で暮らしていた。でも、仕事をサボってしまった。夜逃げを何回もした。金三郎があしげく通ってのは歌舞伎座に通った。楽屋口から出入りできるくらいに親しくなった。昭和12年に三男の輝夫(伊東四朗)が生まれた。
路地の一番奥で暮らしていた。作業台の上にはミシンとアイロンが乗っていた。SINGERというミシンだ。輝夫が4歳のときに戦争が始まる。輝夫の兄たちは小学校を出ると働きに出た。反面教師みたいな父親だった。

輝夫の楽しみはエノケンの芝居を見ることだった。昭和20年3月6日東京空襲だ。火の海の中にいた。縁の下の防空壕で震えていた。伊東家の家は奇跡的に戦火を免れた。
押入れの家の下を掘って穴に逃げた。
20年4月掛川に疎開した。
洋服の仕立てをやった。輝夫は小学2年生だ。東京弁がいじめられた。しかし輝夫はあることで状況を一変させる・田端義夫や歌手や役者のものまねをやった。伊藤くんに「おおスザンナ」をハーモニカで教えてもらった。伊東四朗はその場で吹けた。すごいなあ。
3年生のある日、事故が起きる。トロッコが脱線する。左頬を傷つける。
兄しょうぞうが復員する。輝夫がセリフを覚えるのが得意だった。さるかに合戦でさるを演じて幕の外に出て大受けした。笑ってもらうことに関してっ喜びを感じた。
豊治は東京にいた。輝夫は東京の中学に入る。自分が高校に行きたかったので、弟を進学させたかった。輝夫は市ヶ谷高校に進学した。新宿淀橋に住んだ。
6じょうと2じょうの家だった。そんな暮らしでも母は笑顔を絶やさなかった。笑顔のある家庭だった。
高校時代の輝夫は就職しようと思った。面接で落とされた。頬に傷がある強面の人相が理由だった。
「とっつきにくい男だけど、丁寧に接すればいい男」と履歴書にかかれていた。

就職は諦めて、早稲田大学の生協で働いた。新宿や浅草の劇場を回った。
人間国宝の河野さんがたかる。前線音頭のふりをやっていたという。
浅草フランス座の元支配人は、しょっちゅう来ていましたねという。裏の楽屋から入っていた。輝男に石井均が目をつけた。お前、ちょっと出てみるか。公衆トイレのちょい役になった。
石井均のいち座に入るが解散。てんぷくトリオを結成した。キャバレー周りをして食いつないだ。
金三郎は70歳で亡くなる。
テレビの普及でトリオブームが到来した。てなもんや三度笠に出演した。
三波伸介の引き立て役だった。役者あがりの女形にしようと思った。
てんぷくトリオの中で一番若くてやせている。大河ドラマの上杉謙信の家来役に、おしんの父親役も演じた。
小松政夫さんは、何しろ本を見据えてしっかりものだった。徹底的な完全主義だった。
喜劇の役者であって、なんでもできるということです。21歳で喜劇役者でデビューして60年。今でも一線でやっている。
自分には基礎がないから本を徹底的に読み込んだ。

本当にみせてもらって脳みそが満ち足りたという感じですね。
母のはつは息子の番組を見るのが何よりも楽しみだった。
豊次さんが新聞に投稿した。弟は就職はすべてふられた。演劇界に身を投じて、人が喜び笑わせるのが目標だったという。

三宅裕司は「80歳でコントライブをやるのがすごい。劇場の大きさで芝居をあわせている。舞台上で間をあけていた。若い頃しかできない人間味のある芝居ができる。


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