関ヶ原の戦い、村人たちの戦い。歴史秘話ヒストリア

歴史秘話ヒストリアを見ている。関ヶ原の村に現れた武士たちによって、村人たちは生活を一変させられる。村の土地は戦場になり、田畑はなくなる。当時8つの村、2000人が住んでいた。

石井正則さんは今回はじめて関ヶ原を訪問した。慶長5年当時の絵があった。北国街道や中山道に面していた。竹中重門が作らせた検地帳が残っていた。それをもとにして合戦闘時の村の様子がわかってきた。農民の暮らしは決して楽ではなかった。年6石の米が取れて年貢を収めるとなくなってしまうので、麦を作っていた。西軍は岐阜の大垣城に入る。

大谷隊は関ヶ原に陣を取る。石田三成から協力を求められる。領主の竹中重門は西軍の一員として不在で、農民たちは西軍に協力する。道案内から土木工事も引きうけた。東軍は大垣城の近くまで来ていた。農民は家康に柿を献上した。お金を払って、乱暴狼藉をしないようにしてもらうのが農民の知恵だった。関ヶ原村の人々は、そんなお金がなかった。そこで、女子供を山に避難させた。

田んぼは稲の刈り入れ前だった。戦国時代初期には収穫前に合戦を行わないのが常識だった。でも、兵農分離の政策で戦いの時期は関係なくなる。仕方がないので青田刈りをする。収量は減ってしまうけど、台無しにされるよりもいいのだ。

関ヶ原から14km離れた大垣城は難攻不落の城と言われていた。みつなりは大垣城を拠点に戦うつもりだった。でも、家康は大垣城での戦いを避けて大阪に向かうと情報を流す。西軍は突然関ヶ原に移動を開始する。休んでいた村人に招集をかける。西軍は陣を完成させるために、徹夜で村人を働かせる。家康たち東軍も関ヶ原にやってくる。

福島正則が先陣を切る。9月15日朝に、村人たちは山に逃げる。野上村の裏の観音堂がある山に逃げる。霧が晴れると何万人の武士が戦う様子が見えた。領主竹中重門は東軍に寝返っていた。光成は大砲を使って反撃する。なかなか戦況が動かないので、家康が動こうとする。すると、西軍は狼煙を上げる。

山の上にいた小早川秀秋が寝返って、西軍を攻撃する。あらかじめ家康と通じていたのだ。戦いは東軍の勝利で終わる。数日後山から降りてきた村人は、死体の山を目撃する。犠牲者は東西あわせて、1万2千人と言われている。家康は「勝ってカブトのおをしめよ」と言ったと言われている。でも、庭石をペタペタと踏んでご機嫌だったと伝えられている。9月16日には関ヶ原を家康は離れて、近江に向かう。

竹中重門は家康から供養塔を立てて、後始末をするように命令される。自立救済という考えがあって、村人は大津城まで家康を追いかけていく。家康の前に出て直訴する。「じきじきの禁制を頂きたい」とたのみこむ。その直々の禁制で、村人は元の家に戻り再建する。村人たちは落ち武者刈をしなかったと言われている。落ち武者を丁重にむかえて、墓もたてた。

現在もその精神は生きている。島津氏の墓が残っていて、江戸時代にも九州から墓参りを受け入れた。旧家ではたくさんの石仏が発掘されている。その石仏をいまも供養しているという。



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