歴史秘話ヒストリア、蒙古襲来の真実

モンゴル10万の兵が、日本の1万の兵と戦ったと思われていた。

でも、ここ最近の発掘で新事実がわかってきた。襲来の絵図からも違うことがわかってきた。

700年前の蒙古襲来。元寇。
蒙古襲来絵詞という絵図がある。
モンゴルは地上最大の大帝国だった。なぜモンゴルと戦うことになったのか。その経緯から見ていく。
1268年、北条時宗がいた。太宰府から知らせが来て、フビライが使者を送ってきた。5代皇帝だ。
私が皇帝の位についてから日本は使者を送ってきていない。関係を構築したいと言ってきた。日本の硫黄がほしかったので、関係を構築したかった。友好を求めるはずの文書に武力をちらせかる文言があったので、国書を無視することにした。
国書の脅し文句がだんだん強行になってきた。国書を送らないのなら、船を作って兵を送ると書いてきた。
そうなると、フビライも戦争に突き進んでしまった。
幕府の挙兵命令に、奮い立つ武将がいた。竹崎末長は奮い立つ思いだった。領地も兵もない竹崎はやる気満々になった。

対馬沖に900隻の敵の船がやってきた。
薩摩の武士は、こたびは合戦に行くのだからもしのときには子供に遺産を送ると書いておいた。
文永の役が始まった。モンゴルと高麗の連合軍3万が対馬南部の海岸に上陸した。アンゴルモア元寇合戦記が人気だ。登場する武士全員が戦死したと言われている。宋助国の塚が残っている。手や足を分けて埋葬したという。お祭りの予定だったけど、蒙古襲来で塩をふって食べたというお菓子が残っている。
いっし国の伝説では、モンゴルの兵士が刀を洗ったという川がある。女子どもまで容赦なく殺してしまったという。牛も全滅したという。10月20日に博多に現れた。九州の兵士が戦ったけど、苦戦を強いられた。蒙古軍の弓矢には毒が塗られていた。てつはうという塊は陶器の破片や火薬を混ぜていた。モンゴル軍の戦い方に驚いた。蘇原の丘に陣取るドラと太鼓で合図をした。攻めたり引いたりする統制のとれた戦いをした。
編成された陣形を作って戦っていたので、対抗できなかった。
博多の町は焼き払われた。一方的に攻め込まれたと思われたが、反撃の証拠があるという。

敵の目には矢が当たっていたし、敵を倒した矢が誰のものかわかるようになっていた。

馬の上に乗って流鏑馬をする技が発揮されたと思われる。弓矢を超える武器はなかったと考えられる。100喜が駆けつけて反撃した。

数日に及ぶ激しい戦いの後にモンゴル軍は退却した。台風のおかげではと考えられていた。
矢がつきた。兵が疲れている。撤退するべきだと書かれているという。11月だったので、台風は来なかったと考えられる。

モンゴル軍は数年後の1279年に使者を送る。南宋を攻め落としたフビライは今度こそ、使者を送ると思っていた。
でも、鎌倉では使者を切れと命令する。
博多の防御を固めた。博多藩20kmの長さで、石垣のせきを作った。
4万のモンゴル軍が来た。弘安の役だ。
守りが手薄だった志賀島を占領する。武士たちは島の奪還をしようと戦いをした。6月6日深夜に敵が襲ってきた。連続して攻撃してきた。島を奪い返すには至らない。
右上にはモンゴル軍の指揮官らしい人物がいる。水浴びをするモンゴル兵が左下にある。モンゴル兵ではない。スパイ活動をしにいったのだと考えられる。船が入るような偵察をしたのではないか。
ところが、衝撃の知らせが入る。モンゴルに滅ぼされた南宋の兵が来て、合計10万の兵が迫ってきた。

前日の夜から降り出した雨が暴風雨が起きた。2011年に20メートルを超える軍船が沈んでいるのが見つかった。避難したはずのモンゴル軍が海にもまれて沈む船や陸に乗り上げる船もあった。
翌朝、竹崎末長も敵の船に乗り込んだ。末長じしんも敵に狙われた。
モンゴル軍の兵士が鼻をうまんでいる様子がある。糞尿を煮立てて投げ込んだという。糞尿を煮立てて敵に投げ込んだ。

モンゴル軍は退却することになった。巨大名敵にもひるまない武士の姿があった。
竹崎末長の墓は大切に守られている。
末長は蒙古襲来絵詞を10年後に完成させる。甲佐神社に奉納した。
多くの住民が犠牲になった対馬では、青森県弘前市に対馬の姓を名乗った對馬という一族がいる。子供の頃から蒙古は怖いと教えられてきた。

神風が強調されているけど、実は鎌倉武士たちのしにものぐるいの戦いがあったのだ。


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