歴史秘話ヒストリア 足利義満

室町時代の足利義満が太平の世を生み出した。

天皇の地位も狙っていたとも言われている。
努力をした巨人であるそうな。金閣寺を作った人だ。

1336年から応仁の乱までを言う。
南北朝時代から平和な時代を作り出すことができた。

苦悩の青年時代4歳。春王さまと起こされる。幕府を裏切り攻め込んdね来た。父はもういない。
都から120km以上ある播磨の白浜城に逃げた。細川敬之だ。義満の大きな支えになる。

南朝と北朝に別れて対立していた。義詮は大きく譲歩した。大内、山名、上杉を領土を保証して争いを鎮める。
父が長くないと言い、義満にまつりごとを譲るという。10歳だった。
地蔵院は細川が建てた。
22歳のとき、聡明でたくましい青年になっていた。二人は多くの法律を作る。寺社からの訴えにもすばやく対応する。
細川頼之と義満の組み合わせとよく思わない連中が出てきた。御所様の命令で讃岐に引っ込んでいるという。大軍で包囲されたので、細川頼之を左遷した。
公家として高い地位に登ることを考え出す。権力が十分ではないと理解して、序列をはっきりさせる必要があった。
義満は朝廷の行事に積極的に関わるようになる。笙という楽器に注目する。穴をふさいだ竹が音を出す楽器だ。吹きこなすにはかなりの練習が必要だ。義満は3年で習得する。
天皇がご覧になった前で見事な腕前を披露した。25歳で左大臣になった。舞や和歌にも才能を発揮する。
細川頼之は四国にいた。幕府軍を相手に抵抗を続けた。

笙を学ぶことには大きな意義があった。人を殺めると地獄に堕ちると考えられていた。でも、笙が吹けると死んだ人を弔う意味もあったのだ。
10年間力を蓄えた。

1389年讃岐の国に将軍義満がやってくる。細川頼之は躍り上がって喜んで我を忘れたという。

義満はヨリ雪を都に戻して、味方にしようとした。
山名一族に宣戦布告する。一族みなが戦支度を始める。京都は道が集まっているので、攻めやすい。
あえてスキを作って短期決戦で決めてしまおうと思っていた。

内野という場所を戦場に選んだ。全軍は一つになって山名を対戦すると考えた。山名は南側から攻めてきた。それを撃退する。西側から攻めてきたがそれも撃退する。義満の秘策があった。奉公衆は5000人の精鋭部隊だ。その部隊が山名側を一気に滅ぼした。
そして、南朝と北朝を統一することを考えた。
10年かけて、朝廷とのつながりを作ってきたのが生きてくる。
北朝で公家として影響力を高めたので、それができた。南北朝の統一が成立する。その直前に細川頼之がなくなる。

天皇の位を奪おうとしたという説がある。最新の研究では別の狙いがあったとわかってきた。
それは武家と公家の合体だ。
天橋立はその頃からあった。慈恩寺はたびたび義満が訪問した。文殊菩薩という鎌倉時代に作られた仏像だ。みんなの幸福を祈っていた。
キンコという楽器があった。中国から渡ってきたものだ。幕府の財政基盤の強化を目指した。

挑戦側の求めに応じて倭寇を防ぐ。大国明にも使者を送った。
明は国王としか貿易しない方針だったので、日本国王を名乗った。1回で200億円の利益を得た。
金閣寺を作る。嫡男の義持を公家のトップにしようと思っていた。義持は笙が下手だった。笙は滑らかに吹かないといけないので、難しいのだった。どうしたらいいか考えた。足利義嗣は笙がうまく吹いた。
足利義嗣はそれなりの方法で成人になる。元服する。

数日後、義満は病に倒れる。義満は51歳で死去する。
義満の死後、兄弟で手を携えてまいろうぞと言う。義持は武家のトップになり、義嗣は朝廷側の政治を任される。

武家政治、幕府政治の流れを作ったのだ。足利義満が基礎を作ったという。

小浜には南蛮船がやってきた。生きた像が来たという。象の岩が残っている。象をつなぐために岩を使ったのだ。義満が生きている時代に象が来ていたら、大航海時代がやってきたかもしれない。



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