プロフェッショナル仕事の流儀、、すごい外科医:乳腺外科医

プロフェッショナル仕事の流儀を見ている。凄腕の外科医がいる。

明石定子だ。

双子の母である。東京旗ノ台の大学病院に勤務している。

お腹が空くと機嫌が悪くなるので、色々なところに食料を保管している。
最先端のブレストセンターで働く。

初期の乳がんの患者が来た。ケースによって乳房温存術ができる。女性の癌の状態から部分でも大丈夫だと先生は言うけど、全摘をしたいと希望した。わかりました。乳頭乳輪は残す。0.1%くらいはあるけど、よしとするかどうですね。

乳頭乳輪は残して、ということで大丈夫ですかと確認する。治すか治さないかだけではだめなんですよね。この選択でよかったなと思ってもらえるのがいい。
40代の主婦の手術。皮膚にまで浸潤しており、乳頭乳輪の温存を希望した。さっそく手術が始まった。乳頭乳輪を残す乳がんの手術は最も難しい。明石は乳房の下にそってメスを入れる。それは非常に難しいという。手術の下の乳頭の下を検査に出してもいいですかと聞く。10分後、陰性だとわかる。100%はないけど、それをめざす。90分で手術を終えた。2時間後、女性には笑顔が戻っていた。

明石定子の。その腕は折り紙付きだ。小児用の小さな鉗子を使う。通常では残せない神経も残せる。こまやかな技がある。傷口を目立たないようにするのと、乳腺組織を丁寧に仕上げる。形もきれいに残り、痛みもないという。
お腹が空いた時のお弁当におにぎりを作っている。
新潟にすむ60代の女性、ステージ3の乳がんがあり、術前化学療法を提案した。お胸に関しては癌が小さくなったので、残せる。

術前の照射戦で温存手術ができるかどうかの論文を発表した。

がんはね全部消えました。ステージ3くらいあったのに、薬で癌が消えてよかったのだ。

自宅に帰った跡も、忙しい。37歳のときに双子を出産した。今は高校生だ。
駆け抜けてきた人生はいつも忙しい。
東京大学に入学した。男女機会均等方が成立した。

外科の中では当直室にトイレがないよという場所もあった。
乳腺外科に入る。40代の女性が来た。手の施しようがない。告知はできなかった。患者に選択肢は与えられなかった。いつか治ると信じて入院したが、どんどん弱っていき「こんなはずじゃなかった」と言われた。
疑問を覚えた。医師が患者の人生を決めてしまっていいのかと思った。

70歳のおばあちゃんが来た。命がなくなってもいいから胸を残してほしいと言われた。温存して命が短くなってもいいという患者だ。おばあちゃんの希望通りに温存した。数年後、また来た。再発だった。それでも笑顔で言った。自分の選択に悔いはないよと言ってくれた。

納得が人の人生を支える。癌になっても患者が自分らしく生きるために今日も治療に励む。

先を走っている先生がいるのは励みになると後輩が言う。
働き盛りの女性が来る。片乳で授乳した女性もいる。

安東夏子さん40歳。安東さんはステージ4の乳がんだった。リンパ節や肺にも転移して深刻な状態だった。3週間に1度の投薬で安定していた。坂道をあがれないと泣いたのを覚えている。
着物専門のサロンをオープンした矢先の出来事だった。病気になっても自分らしく生きるにはどうしたらいいか。
2017年の1回めの診察を録音した。ステージ4の癌だと。会社づとめはやめてはだめだと言われた。仕事はやめちやダメだよと言われた。
それはびっくりすることですね。

昭和大学ですね。

ステージ4では手術は行わない。胸の癌を切除したほうが生存率が高いという治験への参加をすすめた。3ヶ月後、抗がん剤がきき胸を残せることになった。治療をはじめて1年、乳房とリンパ節の癌は消滅した。現在は安定している。効いている間はこのまま行ったほうがいいかもしれない。それなりに高い薬で、1回25万円もかかる。できることなら薬を減らしてあげたい。

投薬を減らせるかどうかの検査の日が来た。病状はよくなっているけど、いつ悪くなるかわからない。
検査から5日後、CTなんだけど。肺にかすかな影があった。おくすりは継続のままがいいと思う。肺の影が完全に消えたら、1種類でもいいかもしれない。この人もよく取材に応じたな。
19回の投薬ですか。

乳がんの患者さんに生きる希望を与えること。乳がん研究に道を作ること。あとに来る後輩を育てること。この三つがこれからの明石定子さんの目標ということでしょう。いい番組でしたね。



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