このテーマは前にやっていると思ったけど、また見てしまったのだ。
2018年10月10日に同じ内容を放送していたのだ。
湯川秀樹の20年前に山極勝三郎というがん研究の先駆者がいた。
人の手でがんを作り出すことに挑戦した科学者がいた。
うさぎや熊が手助けになった。受賞間違いないと言われたのに。
山極勝三郎だ。がんの研究を行っていた。
なぜがん研究を志したのか。長野県上田藩の下級武士の家に生まれた。東京大学医学部に入学する。上田市博物館に未来ゆめものがたりがある。ドイツに留学して日本の医学を世界レベルにしたいと。
在学中に結婚した。長男も生まれた。ところが、息子が明治21年に肺炎でなくなる。医師としても父親としても失格だなと思った。
神田愛子さんは、我が子さえ助けられなかったことが重荷になると思うという。臨床医ではなく病理学の道に進むことを決意する。明治24年にドイツへ留学する。
ドイツにルドルフ・ウィルヒョウ博士を訪ねる。あとずさりしたのを、それではダメだと言われた。山極君前へ進むのだと言われる。
3年に及んだ留学で前に進む精神と最新の病理学を学んだ。帰国後、教授になる。
デモンストラチアン・クルグスを行う。3000体の遺体の解剖を行った。
胃がん発生論を執筆した。10人に1人ががんでなくなっていることがわかる。当時は結核ばかりが注目されて、がんのち療法がなくて見守るしかなかった。雑誌「癌」を発行する。
医学の歴史に燦然と輝く成果が残される。
北里柴三郎、野口英世らが功績を残した。そうした人々と肩を並べたのが山極だった。
1907年に人工発がん実験に取り組もうとしていた。遺伝素因説、抑制が効かなくなると癌が発生する。
刺激説、正常な細胞でも刺激を受けるとがんになるという説だ。
山極はさっそく研究に取り掛かる。弟子たちが次々に逃げ出すのだ。ウサギの耳を突くみたいな地味なものだった。
1913年に新入生がやってくる。市川弘一が来た。忍耐強い市川が加わって研究が動き出す。