NHKスペシャル 船乗りたちの戦争

NHKスペシャルを見ている。
民間の船乗りたちが犠牲者になった。アメリカの潜水艦のかっこうの標的になった。その数は7千隻以上になった。

ガダルカナル島の激戦では多くの民間人が犠牲にあんった。10代なかばの漁師が戦地に送られて犠牲になった。餓死した人もいた。
海に消えた6万人の命。

1941年12月に大きな役割を果たしたのは民間の船を戦地に送り込んだ。民間の貨物船や客船を送り込んだ。
兵士や物資を送り、資源を日本に運んだ。
元船員の山地さんは世界中の海をわたっていた。船の後ろの20m砲をつけたり、機関銃をつけた。付け焼き刃の装備ではアメリカ軍の敵ではなかった。一月に100隻のペースで沈んだ。全国の漁村から集められた黒潮軍団が大きな犠牲にあんった。

焼津に住む秋山さんは、アメリカ軍の動きを探る哨戒だった。一日10時間も見張りをさせられた。上官が見ているので、辛かった。千島列島の南の線の南方にとどまり、アメリカの艦船の動きを無線で知らせた。漁船とみられる船は次々と沈められた。
日東丸で犠牲になった兄は、水産会社の社員で結婚したばかりだった。42年4月日本の東海上で空母を発見する。その時の状況は、「敵航空母艦2隻と打電した。」無線を発信した30分後に消息をたった。壮絶なる最後をとげたと思われる。全員が亡くなった。
黒潮部隊は次々と沈没する。
ASIA太平洋に大きく戦線を拡大した。2年目には164トン、3年目には
被害想定の予想は深刻なものだった。船がどのくらい沈むかやってみたら、悲惨な状態だったと証言する。海軍は被害想定の算定をわざと低く修正した。多くの命が失われるのをわかっていたのだ。
43年、ガダルカナル島では貨物船がどんどん沈められた。鬼怒川丸はガダルカナル島に向かった。日米の死闘が続いていた。
父が鬼怒川丸の報告書を見せてくれた。顛末報告書だ。今ここに帰りたるもの75名中13名。鬼怒川丸の船団が島に近づいたときには、6隻が沈没して1隻が航行不能になる。強制座礁をして、上陸する。そこには飢えと疲労に苦しむ日本兵がいた。食料を盗まれたのだ。全員が食糧不足で弱っていく。1月19日には全員が死の手前までいった。
内田さん25歳はまた帰ってくるといって戦地に向かった。ガダルカナルでなくなっていた。島から生きて帰った船員から餓死をしたと聞かされた。母は狂ったようになってしまったという。戦闘で死ぬならまだしも餓死では浮かばれない。

ガダルカナルの戦いいこうも、沈没する。

海軍は輸送艦を護衛する海防艦を作った。性能が劣るので、全然役にたたなかった。

アメリカ軍は潜水艦を使って、魚雷攻撃の精度を高混ていた。
無駄な戦いをして、命を軽く見ているという。
10代なかばの漁師も悲惨な最後を迎えていた。
漁港の高校生たちくらいの少年が、フィリピンまで航行して帰ってこなかった。徴兵の年齢にも満たない人間だった。
帰ってきた方を訪ねてまわったけど、証言があつまらない。生存者のほとんどが亡くなったので、公開に踏み切った。
重い口を開いた白倉さんたちはフィリピンに向かった。食料と兵隊を運ぶ。レイテ沖海戦が起きた。グラマンがやってきてやられた。艦砲射撃で海岸が変形した。レイテでも船を沈められてしまった。牛深の漁船の生き残りは日本軍に入る。徴兵年齢以下の少年たちが軍隊に入った。白倉さんはまっさきに突撃していけと言われた。軍属は後ろにいて、めちゃくしゃだった。うじが湧いて悲惨だった。白倉さんはジャングルをさまよい生き残った。その後、戦争のことは語らなかった。

敗色が濃厚になるなか、特攻を命令した。黒潮部隊に無理な命令を出した。制空権がなくなっても、偵察任務に向かわせた。当時36歳の父が9歳のときに見送った。この戦はまけると思ったのではないですか。海こう丸は無線を発信した。20時17分敵部隊見る。6隻の艦隊だった。最後の打電は、「敵に対して突撃を結構する」というのだ。戦争なんていいことはない。
44年=45年に沈没した船は半数に及んだ。
ある海軍少佐は17年頃は1隻でもやられると沈痛な気持ちになったけど、あまりにも多くの船が沈むと感覚が麻痺したきたと語る。
おにぎりを持って向かうのは、父と最後に別れた港だ。おにぎりを海にささげて、祈りをする。スズキさんは一度だけ小笠原の海を訪れたことがある。手をあわせて、水平線だけだった。酒とタバコとあげて、何千メートルの深さに眠っている。
小笠原の海には今もそのままの姿で、沈んでいる船が数えきれないくらいある。

つらいなあ。


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