かいじゅうたちのいるところ、日本語吹き替え版

一言速報 from 携帯。時間の関係で、日本語吹き替え版を見た。原作は絵本だ。親の言う事に反抗したマックスという少年が、かいじゅうのいる島に到達して繰り広げる寓話だった。かいじゅうたちの顔や姿が、人間や動物に似ている。マックスとかいじゅうたちの繰り広げる話は、現実世界の鏡のようで非常に興味深い。吹き替え版でも全く違和感がない。傑作だ。自信を持ってお勧めする。詳しい解釈は後日。ゴロゴロ。携帯ここまで。

モーリス・センダックの「かいじゅうたちのいるところ」という絵本が原作で、監督はスパイク・ジョーンズだ。これは、子供向けの映画ではない。子供では途中で退屈になって、飽きてしまうだろう。映画の日本の配給会社は、そのあたりの判断が甘い。家族のつながりが崩壊しそうになった原因が、8歳の少年マックスや姉や母それぞれにあり、マックス自身もかいじゅうたちと過ごすうちにそれを見つけるというお話なのだ。お互いに愛を持っているか、それに気がつく旅なのだ。

さらに、冷凍物のコーンでは嫌だと言ったマックスに、食物連鎖の当事者たちの気持ちを実体験させるなど、子供向け映画のすることではない。鳥や牛の顔をしたかいじゅうがいるのは、そのためなのだ。マックスがキャロルの追跡から隠れるのに、KWのお腹の中に隠れるシーンはまさに食べられるとはそういうことだと理解できる。また、KWのお腹から出してくれとマックスが言うシーンは、自らの再出発の決意とも見れる。少し大人になったマックスの誕生なのだ。

マックスが姉の男友達に仕掛けた雪合戦は、かいじゅうたちと行う土ボールのぶつけあいに置き換えられている。そして、悪者と良い者に別れた土ボールのぶつけあいは、小さな戦争にも例えられる。どちらが悪者にされ、どちらが良い者にされるかの区別は外見だけの印象で決められて、さしたる理由もない。それが、戦争の現実なのだ。

そして、人間世界からやってきたマックスがかいじゅうの世界で王様だと言い張るが、それも単なる思い込みでしかないのだ。マックス自身そのことをわかっているが、自分の言うとおりのように物事が運ばなくなって初めてそれを認める。おそらく、マックスがそれを認めなければ、彼はかいじゅうたちに食べられていただろう。この映画はマックスが母に噛み付いて家を飛び出した時点で、マックスの生と死をかけた旅を描いているとも言える。



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