十三人の刺客

1963年の同名映画を、三池崇史監督がスケールアップの上リメイクして映画化した。広島長崎の原爆投下から100年前という説明から映画が始まり、江戸幕府倒幕は23年後のことだという字幕で映画が終わる。そのメッセージから、この映画は広い意味で究極の反戦映画だと思う。刀を使うことを忘れた侍が、主君のためと体制維持のために戦うことになる。泥にまみれて命を掛けた戦いの壮絶さを実感できるほどに、なんという愚かなことかと思う。刺客は13人しかいないのに、討たれる側は300人もいる。そのアンバランスな人数の戦いを可能にしたのは、綿密な計画の末の宿場町を舞台にしたおびき寄せ作戦だ。

刺客の13人は全員が剣豪だが、明石藩の家来の中には実戦で刀を使ったことがない人間もいた。江戸時代末期にそもそも実戦自体がない。そんな状況で戦いが進むと、もはや泥の中をはいつくばるような様相になる。手持ちカメラを使ったり、倒れた人間が地面から斜めに上を見ると切りあっている物同士が映される。なんという醜い争いなんだろう。松平斉韶(なりつぐ:稲垣吾郎)が、最後の瞬間にやっと生きていることを実感するのが皮肉としか言いようがない。

戦国時代が終わって250年も経過すると、侍もその他の人々も平和ボケしている。まるで、第2次世界大戦から65年経過した今の日本のようだ。生きている実感がないから、ほかの人間を虫けらのように殺せるのだろう。そんな明石藩主松平斉韶の暴挙を訴えるために、明石藩江戸家老間宮図書が老中土井利位(平幹二郎)屋敷前で切腹する。将軍は穏便に事を収めるように命令するが、斉韶は江戸幕府の老中に翌年就任する予定だった。

老中は、御目付・島田新左衛門(役所広司)に斉韶暗殺を命じる。倉永左平太(松方弘樹)、平山九十朗(伊原剛志)、石塚利平(波岡一喜)らから仲間を増やし、12人目は新左衛門の甥の新六郎(山田孝之)が入る。どこで明石藩の斉韶様を討つか検討すると、美濃ノ国落合宿が候補になる。前年尾張藩で悶着を起こしていた斉韶一行を足止めするには、理由があったからだ。

宿場ごろ買い取ってしまう作戦が、落合宿の庄屋(岸部一徳)を仰天させる。火薬の用意、弓矢の用意など宿場全体を改造する。どこがどうなっているかは、戦いが始まらないとわからない。また、後発の刺客10名は途中で馬が使えなくなり、山に入る。山の中で、山の民気賀子弥太(伊勢屋友介)を案内人にする。それで、合計13人の刺客が揃う。

子弥太が山賊の長の女に手を出して、どこにも行くところがないという設定もいい。村に入って精力絶倫の子弥太は、村中の女性を抱いても全く疲れない。その生命力は、人間離れしている。また、新六郎(山田孝之)がお艶(吹石一恵)と別れるときに、「早ければ数日で、遅ければお盆に戻る。お盆には戸を開けて待っていてくれ」と言う。この台詞は、この映画が娯楽的要素も持っている証拠だ。世界に配給される予定がありそうだ。141分の上映時間に無駄がない傑作が誕生した。



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